弘前劇場の活動とその方法論
弘前劇場とは
『弘前劇場』は、長谷川孝治・福士賢治・野村眞仁を中心にして1978年に結成された劇団です。以後、今日に至るまでほぼ全ての作品に於いてそれぞれが劇作+演出・俳優・舞台監督という役割を担って活動して参りました。
『弘前劇場』では、共通語で書かれた脚本を俳優が自身の生活言語に翻訳するという方法論に基づいて舞台づくりを行っています。従来の方言による戯曲は台詞の語尾をも厳密に書いてしまうことで成立していました。しかし、現在の地域の物語に生命力を吹き込むことを考えたとき、劇作家が自分一人のリズムで物語を作る行為には広がりと深さの点で限界はありはしないか、という問題意識が弘前劇場にはあります。俳優と劇作家が真の共同作業を、言い換えれば、俳優に作品の質的なものに責任を積極的に負わせることで「地域発の演劇」を持続させていくという考えがあります。
作品発表の場、批評、劇団数、どれをとっても演劇の東京一極集中という構図は、現在やはり抜きがたくあります。そのような構図は決して演劇にとって好ましいものではありません。地域の劇団は地域のみで完結する演劇ばかりを創作していてはならないし、明確な演劇的方法論を持たないままで演劇創造をするべきでもありません。弘前劇場は普遍性のある戯曲で、地域にいることを最大限意識した方法論で、時間的にも空間的にもゆったりしている「地域」で舞台芸術を創ることを大前提にしています。
方法論 - ドキュメンタリズム -
演劇は他のジャンルの芸術とは違って、生身の身体を観客の前にさらすという直接的な芸術です。それは、コピーや偽物が氾濫する現代に於いて唯一ごまかしがきかず、かつテクノロジーの影響を受けにくい芸術であることを意味しています。
弘前劇場の脚本は全編共通語で書かれます。そして、俳優が与えられた台詞を自身の生活口語に翻訳し、演出家がその翻訳された口語を舞台言語に昇華させる、という作業を行います。これにより、日常から切り取ったある一部分の「再現」ではなく、新たな関係性の「構築」が舞台上で繰り広げられていきます。つまり、生活や地域に密着した演劇を作っているということです。このことを弘前劇場は「リアリズム」に対して「ドキュメンタリズム」と呼んでいます。
世界は無数の物語で構成されています。しかし、個々の人間が生きている日常は劇的でしょうか。美術的・映画的には日常は劇的であるとは考えません。しかし、日常にこそ個人の決意や思いが凝縮しているのではないでしょうか。弘前劇場の演劇は基本的にそのような発想の元に作られています。
例えば東京以外の地域でワークショップをするとき、まず共通語のテキストを渡して演技してもらいます。そこで出てくる演技はまず100パーセントどこかで見たことのある演技です。しかし、弘前劇場の方法論を理解してもらい、台詞を生活口語に翻訳してやってみると全く違う演技が出現します。つまり、単にどこかで見たような演技をなぞるのではなく、舞台の上で人間が生き始めるのです。演劇にはアートセラピー的な側面があることを確信する瞬間です。無論、それを芸術にまで高めるためには様々なメチエ(技術)が必要ですが、誰にでも俳優が可能であることに変わりはありません。
現在、地方分権の必要性が叫ばれていますが、弘前劇場のこうした方法論はいち早くそれを実行しているともいえます。俳優や裏方が、まともに生活をしながら大人の鑑賞にも耐える演劇を創作することは、面白ければいいという首都圏で行われている演劇へのアンチテーゼでもあります。きちんとした社会生活を営みながら、そこで得た経験や発想を舞台に乗せる。これからの地域の演劇にはそのことが不可欠であるように思われます。
FRAGMENT
弘前劇場の公演は本公演以外に、われわれが「フラグメント」と名づけているシリーズがあります。
通常、弘前劇場の本公演は14人〜15人の俳優が、まるで日常生活を切り取ったかのように淡々とした台詞運びで人と人との関係性を舞台に展開していきます。そこにはいわゆる詩的な言語が入り込む余地はほとんどありません。しかし、俳優にとっても劇作家にとっても独自の世界を構築しうる長い独白や、日常口語では絶対に表現できない抽象的な世界に対する興味はつきないものがあります。「フラグメントシリーズ」とは、弘前劇場の俳優の技術的な向上と演劇的身体(虚構を支えるだけの訓練された身体)維持のために構想されたシリーズで、劇中に登場する俳優は2人〜7人(通常の半分以下)であり、濃密な詩的言語が俳優に与えられる作品となっています。このシリーズの第1作目のタイトル『破片』('94年)にちなみ、「フラグメントシリーズ」と名づけられています。
戦略 - クリティカル・リージョナリズム(批評的地域性)-
1980年代、建築の分野から「クリティカル・リージョナリズム」という考え方が提唱されました。それは、近代を批判的に継承しつつ、建築の地域性を自家薬篭中に陥ることなく打ち出していこうという、画期的な考え方でした。その中から中央ではなく地域に、傑作建築群が立ち現れてきました。
弘前劇場は青森で1週間程度の公演をし、その後、東京で3〜4日程度の公演をする、といった活動を年に4回ほど行っています。地域の劇団の多くが、地元で土日だけの公演を行っているというのが実状ですが、そこには文化活動を持続させ根付かせるという意図よりも、日頃の成果を披露するという意図が多くあるのではないか、という問題意識から地元で1週間程度の公演を行っています。
例えば、地域には良い演劇批評が無いと言われますが、それは土日だけの公演でよしとする劇団側にも問題があります。初日に評者に観てもらい、中日には批評が出る。しかる後に観客が批評を読みつつ劇場にやってくる。これにより、良い観客(批評性のある観客)が出現し、地元の新聞社に演劇を文化現象として捉える姿勢(具体的には、演劇公演の概要が地域面ではなく、学芸面に載ること。)が出てくる筈です。
ただし、この活動は持続的でなければ意味がありません。最低でも4公演くらいは1週間公演を実施し、地域社会に演劇を根付かせようという努力が必要なのです。
何故、東京公演を行うかと言えば、地域で「完結」してしまう演劇は、批評性を受け入れるという点でも、劇団構成員の意識の面でも危険であるからです。無論、それは東京である必要は全くありません。創作している地域以外であればどこでも良いはずです。問題は地域からの広がりにあるからです。
自分たちの行っている演劇に普遍性があるかどうかを判断できるのは他地域で公演を行った場合のみです。地域内でしか成立しない演劇には、特異性はあっても普遍性はありません。演劇の「郷土史」に参加するだけでなく、「日本史」に参加しようとする姿勢を持ち続ければ、劇団員の意識も自ずから変わってくる筈です。
お国自慢的な素材の作品を、他地域に持っていくことは何の意味もありません。例えば、弘前劇場の舞台に登場する口語はひとつではありません。現代口語津軽弁、秋田弁、広島弁、愛媛弁、共通語、中国語等々、実に多様です。そのことは、共通語のみにスポイルされてしまう首都圏の演劇に対するひとつの批評なのです。
地域だけで完結してしまう方法論では意味がありません。地域性に普遍性を持たせるためには「日本」の現代劇がどのように発達し、どのような問題点を抱えているのかを理解した上で、新しい有効な方法論を提示していく必要があるということなのです。共通語で書かれた脚本を俳優が自身の生活口語に翻訳し、演出家がその翻訳された口語を舞台言語に昇華させるというわれわれの方法論は、リズム・テンポという演劇にとって必要なものが、共通語という単一な言語だけを使用することで消失しているのではないか、という問題意識から発生してきたものです。
「クリティカル・リージョナリズム」という言葉は現在の地域の演劇を考える場合に「核」となる言葉です。リージョナルなだけでは駄目だ、クリティカルでなければ意味はない。現代の地域演劇を考えるとき、避けて通れないわれわれの課題です。
最終更新日:2005.07.29
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