2000年
「三日月堂書店」

この地方で桜が咲く五月。
とある地方の、銀座商店街と呼ばれる一角に古書店「三日月堂書店」はある。店舗内には一部天井まで連なった約五千冊の本と楕円形のテーブルがある。このテーブルは書店内部に設けられた喫茶室のテーブルで、椅子が五脚ほどついている。
半地下に店はあるらしく、お客は階段を下りて店の中に入って来る。
三日月堂書店が開店したのは昭和五八年。まだバブル経済というもののカケラさえなく、インターネットという書物を脅かすものが、アメリカの軍事産業と学術関係にしか存在していなかった時代であった。人々は出始めた「ワードプロセッサー」を購入しかけ、手動式和文タイプライターを捨てつつあった。
この物語は、未だに和文タイプライターを使用し続ける一人の男と、その家族、そして友人達の物語である。
三日月堂書店は二つの部分からなっている。すなわち母屋と書庫、そして店舗である。主は店舗部分で客にコーヒーを供し、古本屋業を営んでいるかのように見えるが、それはいわば昼の部分であって、実際の商売は母屋に続く書庫の部分で行なわれる。
三日月堂の主は、第二種兼業農家でもあり母屋の裏には、ナス・キュウリ・トマト・枝豆・白菜・大根等を植えている畑と、その向こうには三反ほどの水田がある。
長谷川孝治
29の春にも、定時制高校の教員をしていた。だから、それは今からたったの15年前のことになる。けれども、それは遥かに遠い昔だったような気がする。
まだ独身で、木造モルタルの教員官舎に住んでいた。
昼近くになってノロノロと起き出し、近くの銭湯に行く。ほとんど一番風呂のお湯はグラグラにたぎっていて、2センチくらいずつしか入れない。ようやく身を没してもなかなか安心はできない。例えばオナラは湯中で最も警戒すべきもので、かすかな泡が背中を伝ったりしようものなら一筋の火傷の跡がついてしまうこと必定であった。
1万円札1枚をポケットに突っ込み、下駄をカラコロいわせて近くの中学校の校庭を横切り、メシを食いに行く。中華にしようか定食屋か蕎麦もいい、いやいやとんかつもいいんじゃねぇか。5月の青森は文句なく美しく、空は絵に描いたように晴れることになっていて、なおかつ時間は腐るほどあった。
本屋によって単行本を2冊くらいと文庫本を1冊。とんかつ屋に買いたての本を持ち込んでほうじ茶を啜るしゅんかんというのはなんとも贅沢で、真新しい本の読み癖をつけるときの「キシッ」という音は、いまでも食欲と直結してしまう。とんかつにトンカツソースをだぶだぶに注ぎ、千切りキャベツにはウスターソースを麓からかけ、毛細管現象によってキャベツの山の中腹あたりまでがソースに汚染されるようにして食べるとんかつの旨さ。豆腐とナメコのみそ汁の可愛さ、程良く硬いご飯のありがたさ、1985年のメシは今よりずっと旨かった。
楊枝をくわえて川っぺりに読書をしにいく。ゆったりとたっぷりに流れる川を見ながら、煙草を吸って、お日様に本のページをさらす。特別にお日柄のいい日には居眠りなどもした。
3時半になると、やっぱり学校に行かなければならない。スーツに着替えてボロボロのカローラに乗って出勤。「いや、いい天気ですね」「昨夜は何時まで」「貿易摩擦ってなんですか」「星取り表は事務室にありますから」「○○だけど、出稼ぎから帰って、今日から出てきます」「到来物の羊羹、切ってますから」「青焼き、5枚でいいですか」「全日制の△△先生がワードプロセッサー、買ったみたいですよ」「いやね、この前にね、東京でね、マクドナルド食べたんですよ」「小林秀雄が死んで4年、日本の批評もヤワになりました」「××のマニュキュアなんとかなりませんかね」「ソ連が危ないんじゃないですか、もしも押すとしたら」「民間じゃ週休2日が導入されるそうじゃないですか」「ところで、飛行機に乗ったことありますか」
常葉優雅に流れていた。
グローバル・スタンダードもアカウンタビリティーもJRもCPUの速度もEメールもCDも茶髪もウォッシュレットも検問所のないブランデンブルグ門もスペースシャトルもない時代だった。夜の10時。定時制の授業を終え、運転席の床からセンターラインがチラチラと見える車で官舎に帰る。明かりをつけて鞄を置き、万年筆を握って日記をつけた。
さて、15年。人類はどうしてしまったんだろう。
(公演チラシ裏面より)
大石 俊夫(前科二十三犯) − 福士 賢治
元木 将兵(大学講師) − 畑澤 聖悟
木下 和太郎(自称探偵) − 永井 浩仁
一戸 進(三日月堂書店店主) − 後藤 伸也
中本 透(高校教員・中本の息子) − 佐藤 誠
千葉 春男(大学生) − 山田 竜大
中本 隆司 − 長谷川 等
工藤 さなえ(一戸と同居中の女) − 佐藤 てるみ
東雲 律子(大学講師) − 高橋 聡子
山田 喜美子(大学生) − 大作 綾
大石 めぐみ(高校教員・大石の娘) − 藤本 一喜
緑川 純子(大学生) − 赤刎 泰子
浜中 香織(大学助手) − 濱野 有希